警察が冤罪をおこし、自分たちの犯罪はもみけす理由→警察は正義という神話が、犯罪を防ぐのだというすりかえ

                                                    <p>なぜ警察は<br>身内の犯罪をもみけし、軽減化し<br>一般市民を冤罪におとしいれ<br>るのか</p>

 

 

数字で管理されている
 まず、警察官になって警察学校から解き放たれたときに、警察官は「上」を見る

 正義ではなく、市民でもなく、「上」を見る。

 

 そこに、不正や怠慢を見る一方で、自分は公務員で「それでいいのだ」と思うようになる。
 当然、正義感というものが皆無ではないのだが、
警察学校での洗脳によて、自分で正義を考える思考回路は壊れてしまっている
そこで、あたえられるのが、上の思惑を実現するための「数字」である。
当然、働きぶりや必要性を計測するための数字なのだが、数字だけを追うのは
納税のための税務処理ではなく、脱税のための税務処理に似ている。
だが、現場はそれを「節税」だと思い込んでいる。

数字は計測し、売り上げの表をはげみにする営業マンではなく、
そこに「ずる」が生まれる。
つまり、

▲もみけし と

▲ふかし である。
もみけしは、ネット詐欺や投資詐欺、レイプなど、めんどくさいものにあてはめられ
警察はそれを「むずかしいねぇ」と言って、受け取らないか、被害届を告訴と誤解させて、
被害者に書かせて、机のなかに隠しておく。被害届けノートである。

(偶然、犯人がみつかったときに、それをその時点で届け化する)

 

一方で、数字をあげやすいものばかりをおいかけることになる。
それも、冤罪でだ。


なぜか、裁判所が次にあげる4つにはほとんどスルーで有罪を出すのを知っているから、効率よくやるのだ。


 

その4つとは、「痴漢、暴行(傷害手前の意味で婦女暴行や、傷を与えることではない)
、盗撮」それに「自転車窃盗」である
いってみれば、警察はザコばかりをやっているのであるが、白書には数字としてしかでてこないので、
一例に大きな事件を文章であげ、あとは数字を並べるので、くずでもわからないのだ。

 

 

 

食品偽装みたいなもので、試験官が開ける箱にだけ国産牛肉(大きな犯罪)を入れて、あとは外国産のくず肉(小さな犯罪)が入る。
問題は、そのくず肉に、人肉も3割がた入り込んでいることである。
それが「冤罪」である。

 

警察は「それで」いいと思っている。
ある理由からである。


のれんを守ることが、犯罪をふせぐから、のれんを守るために不正をしても「正義」である。


警察が

「威信をかけて」という言葉を使うときがある。
実際に、警察は威信を「かけて」はいない。
かけたからには、それが失敗すれば威信は損なわれるはずだが、
実際に、そうした賭けのチップは出していない。

 

言うだけである。

「威信がある」と言っているだけだ。


「威信」の「威(威嚇)」だけを出して、「信(信頼)」は裏切っている。

いんちき投資のように、うちもこの事業には2億円出してるんですとかいうが、
出しちゃいないのだ。

 

しかしながら、詐欺の会社がばかな市民に信じ込まれるように、警察は多くの市民に信頼されている。
なぜかというと、「警察24時」という番組と、「刑事もの」のテレビや映画がその広報をしているからだが、実際には警察はそのようには動いてはない。

 

さも、やくざが自分たちの広報活動として夜店で笑顔で接客する姿をトリミングしたものが「警察24時」であって、仁義をうたうやくざ映画が「刑事もの」である。


あれは、うそだ。


パトカーは上が白くて、下が真っ黒だ。
警察もそれと同じだ。全部が黒くはないが、全部が白ではない。
だから誤解する。
さも正義の顔をしているが、実際は上層部にはやくざからの利権が莫大であり、捜査上の秘密という秘密保護の部屋をもっているために
多額な税金がうなっているために
いちばん腐敗してしまっているのだ。
カネがうなるから、腐るのだ。


やくざがくさっているのは、なんとなくわかるだろうが、警察が腐っているとはなかなかひとは信じない。
まるで、UFOってあるよね、宇宙人っているんです。幽霊っているんだよ。の話とほとんど
同列にとられられる。

さて、警察はそうしたことをもちろん市民にはさらさない。
それは身内の犯罪のもみけしや、まちがいを認めない姿になっていく。
もうここらへんで犯罪になっている。

仙台では、北陵クリニック事件というのがある、どうみても無罪の青年がもう10年も投獄されている。
それは清水弘之刑事の「功績」によるのだ、
ああ、そう「無罪」でなく、もちろん警察も検察もその容疑者とされた守氏を犯罪者としてしまっているし、おそらく警察官のモチベーションからすれば、清水刑事はその功績でボーナスをもらったろうが、その事件は「過ぎたことでしょ」と思っていると思う。
まっとうな神経ならば、いま解析されている事実を見て、まともに生きていられる神経のほうがわからない。

そう、もしも、守氏が現在の科学的なデータや、できている状況証拠をもってして無罪であればだ。

もしものあとに無罪がくる。そうだ、あすも、太陽が東から昇るのならば。。。

そんなひどいことをしてでも、警察はなぜ自分のまちがいをみとめないのかというと、
警察のいまやいろんなところで問題視されているブランドを守ることが犯罪を防ぐと思っているのだ。
つまり、
バッドマンはときに悪に思われたりする、スパイダーマンも警察に追われたりするんだけど、
警察ってのは、どうも完璧な「善」を演じている、腐った二重人格者なのだ。

しかし、それをさとられたんじゃ、正義のみかたでいられなくなるから隠蔽するのだ。
警察という正義がいるという神話があるかた犯罪がふせげていると思っている。


●「性悪説」で生活してきた人種が現場の警察官になる

 

警察が冤罪をつくるのは、警察官という人種が犯罪に近いからである
それは、犯罪者を相手にするということもあるが、実際にはもっと複雑である

困ることに、警察官の現場には底辺校の出身者が多い。
ヤンキーばっかりの学校だ

 

授業中に校庭のすみっこでたばこをすっていたのが警察官で、学校にこないでゲーセンでたばこをすっていたのがやくざなだけで
入学式は一緒という感じだ。

 


県内で指折りの進学校から警察官を目指すのは、現場ではなくキャリアになるので、これは実際少数になり、現場には長期滞在しない。

つまりは、はなから「性悪説」なのだ。

「夕焼け小焼け」を歌うような文科系男子ではない。

 


冤罪をうけたものは、まず逮捕されたことで理不尽を知り、その許可を出した裁判所をうたがうのだ。
この裁判所とは大丈夫か?と。


そこで、勾留というのは実際に20日かけてリアルを体験しないとわからない拷問だ。


植草教授が本で勾留所の絵とかを本で紹介してたけど、あのなかにいてみんなとりあげられ、連絡が一切うけられず、なにを話してもばかにしたようになにも書き取らない(話しても書かないのだ!)横暴な刑事に毎日突然よばれて話さなきゃならず、かつ、外では自分の生活圏内で警察が好き勝手にテキトーにいいふらしまわっているのだ。


そんななかで、裁判所はまったく能天気に警察から出てきた書面を信じてるし、はなから判断の感覚がずれている。。。


裁判所も、検察も、警察の官僚も、本来はそうした馬鹿(警察)を制するべきだが、そうした意識よりも、楽をえらんでしまう。

 

いちには、やくざが警察に絡んでいることがおおい。いってみれば、必殺仕事人の中村もんどのように生きないと、刺されてしまうという危険が実際にある。
そうしたことがだんだん日和見的に、ただのめくら判でもわたしの押すものには価値がある、なぜならわたしはエリートだからとでも思っているようにくるっていくのだ。

 

そして、警察は暴走をつづけるのだ。。。

 

それはだれの責任か。

私は、それは逮捕から、有罪無罪を適当に決めている裁判所の責任が重いと思う。

 

 

 

 ある理由とは、治安の維持神話の維持である。

 いじいじだ。

 その説明は機会を譲る。